史海回眸:二戰時日軍有個“窩囊廢”師團
在很多人印象中,二戰中的日本軍隊個個都是亡命徒。然而很少有人知道,當時的日軍中有一支以戰鬥力差而聞名的另類部隊,它就是號稱“皇軍中第一窩囊廢師團”的大阪第四師團。日本歷史學家關幸輔在文章《日軍第一窩囊廢師團》中,曾詳細描述了第四師團的各種佚事。有意思的是,這支著名的“弱旅”在戰後竟保留了自己的番號,直到今天,日本陸上自衛隊中仍編有第四師團這支部隊。
問題在於,我在日本網站一點都找不到類似資訊,開始問:誰是關幸輔?
查google日本,到這個網頁一看,科科,原來是個導演,再看劇目,哈,セックス・チェック 第二の性 (1968),A片似的名字。
所以,我不相信該篇文章了。
只是這篇文章要證偽確實不易,一來要找到那篇文章的原文,二來證明過程會有大量憤青反駁,所以還是聽過就算好了。
《天亮前往海邊走》書序
2 天前
4 則留言:
倒不全然,我用「関幸輔 第4師団」查日文網頁查到一些相關資料﹕http://www.google.com/search?hl=en&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Azh-TW%3Aofficial&hs=T87&as_qdr=all&q=%E9%96%A2%E5%B9%B8%E8%BC%94+%E7%AC%AC4%E5%B8%AB%E5%9B%A3&btnG=Search&lr=lang_ja
舉一篇為例﹕
http://bbs16.meiwasuisan.com/bbs/bin/read/history/1221093042/l50
不太清楚內容,但有提到關幸輔和《現代史研究》,雖然不懂日文,但表面看起來跟中文的差不多。
反而文中提到那本《日本一弱かった師団》就完全查不到,這才可疑。
說不定不是中國憤青作的,而是日本人自己開玩笑的也說不定。
速讀那篇,在意以下文章:
013 名無しさん (2008/09/11(木) 23:17:18 ID:dBAbs.SQ)
戦前の一時期、大阪が日本最大の都市だったわけだが、
それを良しとしない連中が、大阪を叩くために新聞社、出版社を動員して捏造した作り話だよ。
ま、江戸時代以降、「上方」であった大阪、都であった京、歴史と文化の源である関西への敵対心が生み出した物だろ。
それは未だに続いている。
東京クズマスコミが率先してやってるわな。
有人認為這是關東那邊的傳媒,誣揑關西的第四師團而作的謠言。關東關西一向有對立意識,不足為奇。
還有這個:
001 名無しさん (2008/09/11(木) 09:30:42 ID:dHjKADPI)
【質問】
一般に,上方の兵隊は弱いと言われ,「またも負けたか八連隊, それでは勲章九連隊」
と,彼らを揶揄(8連隊は大阪,9連隊は京都)する言葉まであり,日露戦争以来,日本一弱いと評判
だったが,大阪の第4師団,通称「淀兵団」は,本当に日本一弱い師団だったか?
【回答】
旧陸軍歩兵第八聯隊は“負け戦を経験していない”精強な部隊であり、またも負けたか8連隊の俗
謡はまったく根拠がない.
...にも関わらず、どうもこの頃あたりか ら「またも負けたか8連隊」の俗謡が、民間から伝わり始め
ていました。 連隊の将校をはじめ下士官・兵達は、俗謡の悪宣伝を消すために猛訓練に明け暮れた
ことが連隊史にも残っており、その後第二次大戦の終戦に至るまでの戦歴をみても、部隊として戦闘
に敗れたという記録はついに発見できないのです。
這裡說,因為不明來歷的壞謠言,連隊中人更勤加訓練,到終戰亦未嘗敗績云云。
出處應該是:角田房子著「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」(中央公論社,1972/9/9), P.206-208
007 名無しさん (2008/09/11(木) 14:45:06 ID:NxvK9F1Y)
唯一、負け戦とこじつけることのできる戦闘があったとすれば、後にも先にも西南戦争以外には見
当たらないといわれています。薩摩隼人が白刃をかざして斬り込んでくるのを目の当たりにしては、
商人や町人出身の兵隊がたじろぐのは、むしろ当然ではないでしょうか。当時九州・小倉に駐屯して
いた歩兵第14連隊、すなわち乃木希典が率いる部隊でさえ軍旗を奪われているほどなのです。こと
さら大阪の兵隊だけが「弱い」と非難される筋合いはないでしょう。
結局「またも負けたか8連隊」の俗謡が発生した時期は、西南戦争の頃であっただろうと推測され
るだけで、決め手となる確証は得られていません。
勉強要數敗績,就只有一次,要數到西南戰爭時期曾經被人奪取軍旗,謠言推測是那個時候開始流傳,當時還是明治天皇的時期,當然沒有確實證據就是了。
003 名無しさん (2008/09/11(木) 12:45:47 ID:VteepLQM)
※歩兵第8連隊(ほへいだいはちれんたい)は、大日本帝国陸軍の歩兵連隊の一つ。明治7年(1874年)12
月18日軍旗親授。太平洋戦争時の通称号は「淀4072」。
明治の陸軍草創期からある古参の歩兵連隊で、大阪鎮台・第4師団の中核部隊であった。佐賀の乱、萩の乱、
西南戦争、日露戦争、上海事変、第2次バターン半島攻略戦等で活躍する。
歩兵第8連隊は「またも負けたか8連隊、それでは勲章9連隊(京都の歩兵第9連隊 / ”くれんたい”のも
じり)」という里謡とワンセットで語られる事が多い。口数が多く弁舌が立ち、商人気質で損得勘定に敏く、
かつ反権力的という偏見混じりの大阪商人気質によって「大阪の兵隊は弱い」という風説が生まれた。こ
れは第4師団を創設した当初から言われている。
しかし、実際に第八連隊は負け戦と云う負け戦をしておらず、また背後に聳える盃ケ岳や多紀連山を使った
厳しい訓練や演習で「丹波の鬼」「山岳戦の篠山連隊」と恐れられ、信頼された篠山歩兵第70連隊の直系母
体(第8連隊内から要員が捻出・編成され篠山に移駐した連隊)にもなっており、決して弱かったわけではな
く、大阪鎮台時代の西南の役に連隊が従事した際には明治天皇より、「戦功ご嘉賞」という全軍に於いて極め
て名誉ある詔勅を後にも先にも日本軍では唯一賜るという偉業を達している[1]。太平洋戦争時のバターン・
コレヒドール攻略戦に於いても第8連隊(第4師団)は奮戦勝利しており、軍司令官の本間雅晴中将から謝意を
述べられ労を労らわれている。
即使被奪軍旗,明治天皇曾下敕嘉許第八連隊(第四師團屬下)。
當初設立軍團時,因為團隊當中不少是商人與町人(市井之徒),他們很會計算得失,而且商人被認為有反權力傾向,故此被歧視,說「大阪的軍隊很弱」。
更在意的是,關幸輔有寫過一本書叫「現代史研究」嗎?其實引文都來自該書第七章,但我找不到這本書的資料。
或者可以假設:導演關幸輔真的寫過「現在史研究」,中國人未經查證作者身份,亦不辨真偽,就拿去供應各大小憤青,以助「小日本」談資。
反正是敵國,就算有更多反證,憤青也不會聽得入耳。
那篇文章我也有看過,不知真偽。只是入面提過有關「大阪go-stop事件」倒是真有其事。事件最後是兵庫(神戶那邊)縣知事調解,那個肇事的軍人到警察派出所跟那個截停他的警察握手合照,和平解決。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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